社会人一年生

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理想と現実~母親の件~そして挫折

専門学校の卒業と同時に、地元札幌のNEC系では東日本最大のソフトウェア会社に就職が決まりました。同期入社は約100名にもなる大きな会社でした。2か月の新人研修を終えて配属された部署が汎用機(大型コンピュータ)の計算センター部門でした。当時まだパソコンが出始めの頃で業務システムはオフコンが中心、まだまだ高額だったので導入できない企業からデータだけ受け取って処理結果を返すという仕事でした。

会社で使用してた汎用機は専門学校で学んだNECの同じ系列だったのでほとんど違和感なく仕事に入る事が出来、年目で主任となり早々と部下もひとり着く事になりました。

この頃は仕事にも慣れてきたので自分の将来、とくに結婚について考えるようになりました。当時は母親と2人暮らしで住んでいたいた家は祖父母の代に建てられた木造の古い小さな家で建物は所有していましたが土地は借地でした。

所有していた建物は古くて資産価値がなく、土地は借地でしかも札幌の中心部に近い場所だったので土地を買い取るには数千万円、一般のサラリーマンが買える土地ではありませんでしたので、この土地に居続けるメリットはほとんどなく新たな生活の場を考える事になりました。

引っ越し先を検討する段階になって親子で一緒に暮らすか、別々に暮らすかという事になりました。私の結婚について私と母親の考えはまったく別のもので、私は私が結婚して私の家庭に母親が入るという考えで、母親は私と母親の中にお嫁さんが入るという考えでした。

つまり私の家庭に入るのはお嫁さんが先か母親が先かという事です。あくまも当時の私の考えなのですが、私の母親は家事炊事など家庭の仕事にはまったく向かず、逆に家庭を混乱させる危険性があると感じていました。実は父親のアルコール依存もこれが原因でストレスが溜まって近所の飲み屋通いが始まったように思います。

本人が少しでも自覚して控えてくれるようなら良いのですが、田舎育ちの古い人間なのでそのような協調性は期待できず、再び一緒に暮す時はお客さんを迎えるようにしたほうがお互いに良いのではと判断しました。でも母親にはなかなか納得して貰えず、最後はかなり強引に納得させたと思います。今思うとここから第2の綻びが始まったように思います。

そういう事で私はGW明けに一足先に実家を出て、母親もお盆が過ぎた頃に新しい生活がはじまりました。母親の引っ越し先は当時勤めていた職場の社長さん宅の近くで送り迎えして頂けるのと、私名義の雇用促進住宅ではありましたが、向いが管理人室だった事もあって実家で一人暮らしするよりは安心だと思いました。

それぞれ別々に暮らし始めて数年が経ちました。母親も50歳を過ぎので私自身も早く結婚して家庭を持って母親を呼び寄せたいと思っていました。ただどうしても母親の事で引っかかる事があって、なかなか結婚する気持ちが高まる事はありませんでした。

それは母親とお嫁さんの関係、私の母親は8人兄弟の長女、自分が一番でなければ面白くないという気持ちを内に秘めていました。私と一緒になってくれるお嫁さんに変な気苦労や気遣いをさせたくなかったのですが、その心配がどうしても拭えませんでした。

やがて母親が色んな理由をつけて上手にお金を要求するようになってきました。年齢的に50歳を過ぎてますし体調不良などで収入が減ったり余計な出費が出る事も十分考えられます。最初は金額もわずかで臨時のお小遣いと思って気軽に渡していましたが、徐々に金額も増え要求回数もや間隔も短くなってきて様子がおかしいと思えるようになりました。

最初のうちはもっともらしい理由だったのですが、怪しい理由も増えてきた事もあってある日じっくり話を聞いてみると、パチンコしている事を話だしました。しかし本人曰く遊びの範囲で、パチンコ仲間から良い情報を得られているのでトータルでは負けていないと言うのです。

ではなぜお金が足りなくなったのか言わせてみると、色々と支払いがあった事を忘れて使っててしまって足りなくなった、早い話うっかり忘れと勘違いだったという事で、出費先は外食やタクシー代との事でした。

この理由は実に絶妙で母親の仕事先は町の中心部住まいは札幌の郊外で地下鉄沿線でもなく、タクシーを使えば片道3000円以上最寄りの地下鉄駅までも1000円以上はかかる場所、年齢的に足腰もあまり丈夫ではなかったので、週2~3回タクシーを利用したら月のタクシー代だけで2~3万円、特に冬なら状況によって妥当な金額でもあります。

パチンコに関しては自分から口にしたものの私が現場を見たわけでもありません。私自身があまり親孝行もしていないという後ろめたさもあって強く釘を刺す事はできませんでした。とりあえず銀行系のカードローンと消費者金融のカードを持っていて、消費者金融のカードは私が立て替えて完済しカードを返納銀行系のカードは何かあったときの保険がわりに残し完済だけ済ませてました。

実はこの時に、なぜパート従業員で50歳過ぎの単身女性が保証人なしで消費者金融と契約できたのか注意しておくべきでした。確かに契約書の保証人欄は空白になってました。そして契約書の下の端の部分、何かの記入欄でもなんでもない場所に私の名前と勤務先が書かれていました。

当時はまだ個人情報保護法などない時代、私が勤務してた会社は大手企業でまだ20代でしたが年収は5百万円前後を貰っていました。私自身もクレジットカードなどを契約していたのでこのあたりから情報が洩れていた、もしくは勤務先からある程度収入がある事を把握されていたのではと思ってます。

母1人子1人、母親が払えなくても子供が何とかするだろうという判断だったのかもしれません。後で総務にいた女性にから聞いた話ですが、会社の総務へ私宛に昔一緒に仕事した〇〇という者ですが(私)さんはまだいらっしゃるのですか」という電話があり、転送して取り継ごうとすると「いらっしゃるのがわかれば近々連絡します今日はイイです」という電話があったそうです。〇〇という名前に覚えがなくこれが私の在籍確認電話だったように思います。

数年後に2回目が、その数年後に3回目が起こりました。仏の顔も3度までではないですが、もう母親を見放す気持ちでいましたがいちおう本人の気が済むまで言い訳は聞きました。やはりパチンコは行っているもののトータルでは負けていない私を少しでも楽にしたいからとの事でした。

負けていない、儲かっているのになぜお金が無くなるのかを聞いてみると、パチンコはつぎ込むほど儲かる、だから儲かったお金を次につぎ込んでいるから無くなるんだという理由でした。頭の中は勝った時の成功体験しかなく負けるのはつぎ込むお金が足りないから、だからもっと出してくれ、そうしたら勝つ事ができて恩返しができるという理屈でした。もうダメだと思いました。

2回目の債務整理の頃から私自身が消費者金融などから借り入れしてお金を工面していました。その事は母親にもちゃんと話して厳しいんだからもう無茶しないでくれと顔をあわせる度に話ました。実はこれも逆効果でした。これはあくまでも私の予想になりますが母親が一番望んでいた事は再び私と一緒に暮らす事だったと思います。寂しい、心細い、高齢になってきて働きたくない一人で生きるのがイヤだったのだと思います。

母親は私がお金に困り生活に行き詰ったら、今住んでいるアパートを引き払って自分のところへ戻ってくると考えたようです。この頃から私がしないで欲しいという事は(私のためにという)色んな理由を着けてするようになりました。私が辛いと言えばいうほど(その辛さを楽にしてあげたいからという理由で)辞めませんでした。私も薄々気づきはじめましたが、反面、本当はまだどこかに「親なんだからいつか解ってくれるのではないか」という「親を信じたい気持ち」もありました。

この件が続いて、私は「辛い」という事を口にできる人が居なくなりました。この世に残ったたった一人の家族であり母親に「辛い」と言えなくなった絶望感、もう世間に私の見方は居ないのではという絶望感を味わいました。

再び母親と距離を置くことになるのですが、母親の次なる作戦は私を悪者にして親戚を使って説教、説得させるという事をはじめました。息子が私の苦労も知らず見捨てている、私は可哀そうな母親という愚痴を色んなところで口にしはじめました。何人かの親戚から説教じみた電話がくるようになりました。

その件に関して、私は一切の言い訳はしませんでした。母親がそう言っているのならそういう事ですという態度を通しました。その理由は反論して今度は親戚中から母親が問い詰められ、追い詰める事になって逃げ場を失った母親が次は何をするかわからかったためです。私が悪者になっているうちは母親もそんなに無茶はしないと考えました。