誕生~学生時代

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生き辛かった子供時代、父親のアルコール依存、アルバイト少年、高校浪人

昭和38年(西暦1963)年10月26日札幌で生まれました。10月26日はマツコ・デラックスと同じ誕生日です。父は小さな金網製造会社の工場長、母は専業主婦(当時)でした。その他に父方の祖母の4人家族でした。

小学校1年の夏休み、母親の実家がある留萌の奥地まで(傷心旅はじめての一人旅をする。両親には申し訳なかったと思いますが、家の中が詰まらなかったのです。親は共働きのうえに私は一人っ子、いつもひとりぼっちでしたが、母親の実家には1つ歳下になる双子の従弟を含め4人の従弟がいてとても賑やか、兄弟ってイイなぁとつくづく思いました。小学校の6年間、夏休み、冬休み、春休みは終業式を終えて真っすぐ母親の実家に向かい、始業式の前日に戻るという事を繰り返していました。

グレ始めたのは小学校2年から、原因は担任の女性教師。自慢するわけではないですが、担任の女性教師曰く「あなたは並みの人間じゃないのですよ」と特別扱いされ、変なノルマまで課されて監視され、友達と自由に遊ぶ機会も失ってしまいました。何でも私のIQが人並外れだったそうです。(自分自身では正確なIQ値を知りません)。

中学に入った頃から父親のアルコール依存が酷くなってきました。今だから「アルコール依存」と言えますが、当時中学生だった私にはそんな病名とか病気の知識なんてありません、とにかく「酔っ払い=狂っている」としか思えず、もともと疎遠だった父親とはさらに距離を置くことになりました。

中学は繁華街で有名なススキノに近い中学校に通いました。ススキノに近かったこともあって、普通のサラリーマン家庭の他に「母子家庭」や「訳アリ」の友達も多くいました。まわりには様々な事情でアルバイトをしている友達も多く、私も中学1年の秋頃から新聞配達のアルバイトを始めました。理由はアルコール依存の父親がいる家には少しでも居たくなかったので外でご飯を食べるためです。

この頃の生活パターンは、学校が終わる→家に戻って着替え→バイト(夕刊)→買い食い→親が夜働いていている友人の家に行ってそのまま泊まる→バイト(朝刊)→買い食い→家に戻って着替え→学校に行くといった感じでした。こういう生活パターンの友人が4~5人居ました。

ろくに勉強も塾通いもしていなかったわりには学校の成績は「中」の「中」くらいで、3年になると卒業後の進路は当然高校進学を薦められます。私の本音は早く家を出てアルコール依存の父親と離れたかったのでいちおう就職希望をしましたが、担任の教師からは「公立も入れるレベルでもったいないから高校に行け!」の一点張り、表向きは進学する事にして心の中では行かないつもりでした。

そもそも行かないつもりでしたから受験勉強はしませんでしたが、公立と私立両方を受けて両方とも合格しました。いちおう試験は普通に受けましたが(少なくとも公立は)受かると思っていなかったので、少し未練を感じてズルズルと入学する運びになりました。

それでも家を出たい気持ちは変わらず、というかこの頃になると父親のアルコール依存が益々エスカレートして学校に行くどころではなくなってきました。母親も毎日泣いてばかり、家の中は地獄でした。

入学式を終えて普通に通いはじめましたが、GWが過ぎた頃から家を出てたい気持ちが再び強くなり、夏休みが入る頃学校へ行かなくなり、大嫌いな父親とは毎晩のようにケンカを繰り返した挙句に退学の手続きをとる事となり、夏休み明けの教室に私の席はなくなりました。

学校は辞めたものの、なかなか良い仕事も見つかりませんでしたが、相変わらず新聞配達のアルバイトだけは続けていました。

そんなある日、朝刊配達を終えて両親とも仕事に出かけて誰もいない家に戻ってひとりで過ごしていたところに母親から電話があり、父親が倒れてそのまま亡くなったとの知らせでした。もともと喘息や高血圧その他いろんな持病を持っていた父親は、朝仕事に行く前に持病の薬を大量服薬して意識を失いそのまま病院で亡くなったそうで、死因は「心筋梗塞」でしたが、私自身は自殺だったと思ってます

怪獣(アルコール依存の父親)が居なくなった家は静まりかえっていました。母親は仕事から帰ってくるといつも泣いてばかりでした。父親が亡くなる前から泣いていました。私と同じようにアルコール依存で暴れる父親にさんざん苦しめられていたのですが、私は私で父親から逃れる事で手一杯で母親の事を気遣う余裕などありませんでした。

そんな母親の姿を見て、逃げ出したかった父親が居なくなって、とりあえず家を出る理由がなくなってしまいました。戦争のような毎日が終わると自分のまわりを冷静に見ることができるようになりました。仲の良かった同級生は進学した高校で新しい友達ができて楽しそうしている姿を見て、私だけ取り残されていくような寂しさを感じました。

冬に入る頃には再び高校に通う決心をしました。「友達」が欲しかったからです。高校受験に関しては1度経験しているベテラン(?)だったので、私立高校なら今のまま努力しなくても入れる手ごたえを持っていました。しかし願書受付の時期になって当時の私立高校は留年した生徒の願書受付はしていない事がわかり、公立高校1本で受験するしかありませんでした。

もう失敗は許されない崖っぷち状態でしたので、ギリギリのラインで高校選びを行い、受験勉強は・・・、一応しました。おそらく合計10時間くらいです、作戦勝ちでした(笑)。情報量を必要とする国語や社会は捨て、じっくり考えたり何となくフィーリングで点数を稼げそうな数学と理科にターゲットを絞り、単行本並みの小さな参考書を試験前日にひととおり読んだだけで無事に合格できました。

春になって雪が解けてきた頃、私も原付免許が取れる歳となり、相変わらず続けていたバイトも自転車ではなくバイクを使えばもっと稼げそうだと思い原付免許を取得しました。免許が取れてしまうと当然バイクも欲しくなるわけで、いちおうバイトで稼いだお金がありましたから近所のバイク屋で中古の「ホンダMB-5」という当時としては斬新なデザインのロードバイクを購入しました。

今まで自分の足か自転車、公共の乗り物くらいしか移動手段がなかったわけですが、バイクに乗り始めると世界が変わりました。もともと小学1年で一人旅をするくらい放浪癖があったので毎日のように色んな場所へ行って色んな景色を見てまわりした。

やがて高校の入学式も近づいてきたので入学式の前日に学校の下見をバイクに乗って出かけました。無事に入学式を終えた翌日いきなり職員室へ呼び出されました。実は入学式の前日にバイクに乗っているところを目撃されていました。

いちおう免許は持っていたので法的には何の問題もなかったのですが、中学卒業してストレートに高校入学すると必ず15歳未満なので、高校入学前に免許を取得している生徒は存在しないはずです。それが居たのですから学校関係者の間でちょっとした騒ぎになっていたようです。

職員室では「免許を持っている事をなぜ隠していた?」と問われましたが、私は「入学願書に免許の有無を書く欄がなかったから」とサラリと(?)返し、とりあえず処分保留となりました。

再び通うことになった学校はとても楽しく夢と希望にあふれた(?)毎日でした。ただ問題だったのは年齢の事、いちおう親しい男子には1歳違う事を話していましたが、女子にはまったく話さないままほぼ3年間通しました(実はバレていたかも?)。

やはり過去が過去だっただけに恥ずかしさや言い辛さがありました。それでも気にする事なく普通に接してくれていた男子には本当に感謝しています。結局お咎めなしとして扱ってくれた学校関係者にも感謝しています。

そんな居心地の良かった環境に甘えるように、高校1年の夏休みに中型二輪免許を取ってしまいました。原付免許を取得した時と同じように新しいバイクが欲しくなり、当時人気絶頂だった「カワサキZ400FX」を新車で購入、ローンを組んでバイトで返済する事にしました。

原付バイクで広がった世界がさらに広がりました。夜明けと同時に支笏湖往復してからバイト(朝刊配達)、そして学校へ行くという生活が始まりました。高校2年のGWには初めて日高山脈を越えて道東方面にも足を運びました。その時に初めて見て感動した阿寒湖や屈斜路湖の景色は今でもしっかり覚えています。

この頃になると学校に隠れてバイクの免許を取る友人も出てきてバイク仲間が増えてきました。週末は支笏湖か朝里峠、時々真面目にツーリングという生活で、さらに世界が広がって毎日が楽しくて仕方がありませんでした。

3年生の夏休みは親しい仲間と道東方面を野宿しながら2泊3日のロングツーリングにも出かけ、本州からやってきたライダーとの交流も楽しみとなり「北海道が大好き」「人との交流が面白い」「色んな事を学びたい」「色んな事を伝えたい」という思いを少しづつ意識しはじめて、この時の経験で今の自分の基礎が出来上がったように思います。

高校3年になると卒業後の進路を考えなければなりません。まだこれといった将来像はできていませんでしたが、私自身は理工系の人間で当時愛読していたラジオライフ(だったかな)という雑誌で簡単なコンピューターの自作記事を見て、さっそく部品を調達して組み立てて動かす事に成功、ちなみにこのコンピューターはデータ入力用のスイッチ、CPU、結果表示用のランプが1枚の基板の上に乗っているだけという原始的なものでしたが、好奇心旺盛な少年の心に火を着けるには十分でした。

この事をきっかけにコンピューターの存在を身近に感じるようになりました。またプログラミングの専門学校がある事もわかり、卒業後の進路は奨学金を受けて2年制の情報処理専門学校に通う事にしました。

さらに衝撃的だったのはこの頃からパーソナルコンピュータの販売がはじまり、私もNEC「PC8800」という8ビットのパーソナルコンピュータを手に入れて、雑誌を見ながら簡単なゲームなど作ってプログラミングの面白さにハマってゆきました。

ただこの頃のマシンはスペックが低く、標準搭載のBASICでは画面表示動作が遅くて使い物ならあいため、より高速なマシン語にも手を出して命令やデータを16進数で直接メモリに書き込んでいました。そのために必要となるハードウェアの勉強もしました。

プログラミングの勉強を続けていくうちに、より効率よくアルゴリズムを組む方法や、同じような処理は独立させて共用するなどの生産性向上にも興味を持ち始めました。この頃はまだまだメモリー価格も高く、いかにしてメモリー消費を抑えるかが重要でした。この時に結果として学んだ事は、命令数が少ないほど速くて誤動作も少ないうえにバグも見つけやすいという事、シンプルイズベストが基本であるという事を実感しました。

専門学校では学校以外でもプログラミングを学べる環境にあったため、成績はトップに近いところをキープしていました。通っていた専門学校は国内数か所に系列校があって全国約3000名ほどの生徒を抱えており、年末に全国統一試験がありました。私はこの統一試験において1年の時が全国16位、友達や先生からも「マグレだ!」と言われましたが、2年の時も全国17位で好成績をキープ、実は私自身「マグレ」が2年続いたと思ってます(笑)。