子ども食堂に感じるモヤモヤ感が少しわかってきた

シェアする

image

私が子ども食堂のような取り組みを知ったのは2010年頃、本州の小さな食堂が、6畳ほどの小上がりを地域活動の拠点としてサークル活動、会議、食事などに活用して貰おうと開放したことをお店のブログを通じて知ったのが始まりで、その活動の中に子どもたちに勉強を教える寺子屋のような活動があり、やがて子どもに食事を格安で提供する日がはじまりました。

スポンサーリンク

恵まれない子供たちのためにという「施し貧困対策」は結果的に失敗する

この食堂が始めた取り組みは面白いと思って、似たような取り組みがもっと知りたくてネット上にアンテナを張り、今も情報収集は続けています。やがて同じような取り組みが全国的に始まり、メディアにも取り上げられ一般的に「子ども食堂」と呼ばれるようになったのは2012年頃だったと思います。しかしこの頃から始まった子ども食堂には違和感を感じるようになりました。

そもそも「子どもの貧困」という言葉や表現には違和感を感じていました。子供は経済的に自立していませんしすることもできません。子どもの生活は親や家族に依存するしかありません。つまり子供の問題ではなく保護者レベルの問題です。人間が生きるために必要な栄養を摂ることは大切ですから、様々な事情で満足に食事をとれない子供に食事を提供することは良いと思います。しかしそれではいつまでたっても貧困問題は解決しません

私がはじめて知った本州の食堂は当初から「地域食堂」と名乗り、貧困の子供たち向けの活動ではありませんでした。今も続いているブログにも子どもの貧困を問題視する発信はありません。「子どもの貧困」を特別視することなく子ども全体をフラットに、もっと言えば子供から老人まで、経済的に貧しい人も豊かな人も関係なく地域の人々がフラットに利用できるような場づくりを感じます。「子ども食堂」というよりも「コミュニティカフェ」に近く、それは今でも続いています。

普段は小上がりを学校帰りの子ども達が自由に勉強したり宿題ができる場として解放し、子ども向け子ワーキングスペースのようになっています。そして子どものみ1食100円で夕食を提供する日を週2回設けています。「大人が子供のために何かを提供する」というのではなく、「子どもが自由に過ごせる場の提供」というスタンスです。

しかし「子ども食堂」と言う言葉が浸透するようになると、大人が自己満足を体現する場というか、大人たちがやりたい「子ども食堂」が増えているように思います。とくに「子ども貧困」を必要以上に問題視することで「我々は正義だ」と言わんばかりの「子ども食堂」も耳にしますし、そうなると大人たちの「やりたい事」で意見の衝突がはじまり、やがて消滅という話も耳にします。そもそも「ここは貧困の子供たちを助ける場です」と大々的にスローガンを掲げているところに、たとえ困っているとしても気持ち良く足が運べるでしょうか?、そんな神経が私には理解できません。

本当に必要な支援は経済格差による孤立を防ぐことだと思います